2008年06月12日
きっかけづくり
私ができること。
そのひとつに「きっかけづくり」があります。
忙しい毎日をこなすだけで精いっぱい。
幸せな日々がしばらくは続くだろうという憶測。
時間に忠実な日本人は立ち止まることを好まない。
そんな日常の中で自分や家族のために立ち止まる、
思いを巡らす時間を作ることがとても大切。
私はその時間を一緒に持つきっかけができたとき、
できる限りのお手伝いをしています。
いかにさまざまな場面を想像できるか、
これが大きなカギ。
最大限の幸せ探しに皆さん、チャレンジしてますか?
そのひとつに「きっかけづくり」があります。
忙しい毎日をこなすだけで精いっぱい。
幸せな日々がしばらくは続くだろうという憶測。
時間に忠実な日本人は立ち止まることを好まない。
そんな日常の中で自分や家族のために立ち止まる、
思いを巡らす時間を作ることがとても大切。
私はその時間を一緒に持つきっかけができたとき、
できる限りのお手伝いをしています。
いかにさまざまな場面を想像できるか、
これが大きなカギ。
最大限の幸せ探しに皆さん、チャレンジしてますか?
2008年06月07日
心から願う

日本平動物園へ行ってきました。
朝10時頃から閉園まで。最長滞在時間です。
動物を見て驚いたり、うさぎやひよこに触ったり、乗り物に乗ったり。
写真はコイのエサやり。
モナカの皮の中にエサが入ってて、真ん中で割ると、
上手にエサを取り出せます。
夢中になってエサをやる姪っ子の後ろ姿を見て、大きくなったなぁとしみじみ。
もうすぐ4歳。短い4年の間にいろんなことがありすぎて、
周りの大人は心配の連続。
大人が思っている以上に子どもはその場の空気に敏感で、
困らせないようにと「いい子」にしているけなげさに胸が痛むこともありました。
ありきたりの言葉ですが、
今は本当にのびのびとすくすくと育ってくれています。
ありがたいことです。
最近はお話しがいっぱいできるようになって、にぎやかこの上なし。
これから先も、彼女たちに寂しい思いは絶対させないと心に誓うオバでした。
☆オートチェアで昇った頂上に「展望広場」があります。
眺めも最高ですが、トランポリンのような「ふわふわドーム」が
かなり楽しかったです^^
ケガをしないかとヒヤヒヤしましたが・・・。ぜひ足を運んでみてください

2008年05月01日
悲しい現実

最近読んだ本です。
生命保険の罠 後田 亨 著
講談社+α新書
生命保険の仕組みをほとんど文章で示しているので、
初心者には少しわかりにくいところがあるかもしれません。
名指しで保険会社名が出ているので、
その保険会社で契約している方には衝撃でしょう。
悲しい現実です。
「非常識」が「常識」になっているんです。
私たち消費者側もそれなりの知識が必要な世の中ですが、
難しい知識はいりません。
言われるがままではなく、自分の脳で考える必要がある。
「選んでもらう」のではなく自分で「選ぶ」ことが大切なんだと思います。
2008年04月12日
つながる、つながる。
今日(正しくは昨日)、それは突然やってきた。
自分でも信じられない、驚きの出来事の連続。
そしてつながる、つながる。
シンクロニシティも実感した一日。
とにかく今日は記念日に違いない。
新しい環境に自分を置いてみた日。
愛車のターボのように加速する私を誰も止められやしない?!
自分でも信じられない、驚きの出来事の連続。
そしてつながる、つながる。
シンクロニシティも実感した一日。
とにかく今日は記念日に違いない。
新しい環境に自分を置いてみた日。
愛車のターボのように加速する私を誰も止められやしない?!
2008年03月30日
この世は修行
四十九日の法要で、お坊さんがこうおっしゃっていました。
「この世には修行をするために生まれてきた。
若くして亡くなる人はこの世での修行が終わったから、
極楽浄土へ早く戻るのだ。」
以前読んだ本の中にも同じようなことが書かれていました。
私には理解しがたい考え方です。
若くして亡くなった人はこの世でやりたいことがたくさん残っていて、
無念の気持ちが強いのではないかと思うのです。
残された家族は悲しみや寂しさを背負う修行を
しなければならないのでしょうか。
逆に長生きされて亡くなった人はどうなんだろう?
そんなにたくさんの修行をしなければならなかったのか。
法要では断片的にしかお話されませんでしたが、
本当はもっと深い意味があるのでしょう。
そもそも修行ってなんだろう、苦労とは違うのか?
歳を重ね、いろんな経験をすれば分かるようになることなのでしょうか?
今の私は、「日々を大切に生きる」ことを心にとめるので精一杯です。
「この世には修行をするために生まれてきた。
若くして亡くなる人はこの世での修行が終わったから、
極楽浄土へ早く戻るのだ。」
以前読んだ本の中にも同じようなことが書かれていました。
私には理解しがたい考え方です。
若くして亡くなった人はこの世でやりたいことがたくさん残っていて、
無念の気持ちが強いのではないかと思うのです。
残された家族は悲しみや寂しさを背負う修行を
しなければならないのでしょうか。
逆に長生きされて亡くなった人はどうなんだろう?
そんなにたくさんの修行をしなければならなかったのか。
法要では断片的にしかお話されませんでしたが、
本当はもっと深い意味があるのでしょう。
そもそも修行ってなんだろう、苦労とは違うのか?
歳を重ね、いろんな経験をすれば分かるようになることなのでしょうか?
今の私は、「日々を大切に生きる」ことを心にとめるので精一杯です。